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  • 執筆者の写真伊丹西高校放送メディア部

11年間ありがとうございました!

ご報告です。

伊丹西高校の放送メディア部の顧問だった尾崎は県立尼崎北高校への転勤を命じられました。伊丹西高校では11年間勤めました。

このサイトの運営・管理は顧問が私的に行ってきたものです。引き継いでくれる新たな顧問に運営をお願いすることはしません。基本的にはこれが最後の投稿・更新になります。


放送メディア部の活動はこのサイト・ブログでも報告してきたようにたくさんの人に協力をお願いしてきました。本当にありがとうございました。そして、今後も伊丹西高校放送メディア部をよろしくお願いします。


ここから先は顧問の思い出話です。長いので読まなくてもいいですよ。

私が伊丹西高校に赴任したのは11年前の2009年4月です。伊丹西高校の前に勤めていた猪名川高校で放送部の顧問になったことがきっかけで放送部活動や視聴覚教育に取り組むようになりました。


1年目の2009年度。伊丹西高校は学校改革の真っ最中でした。セーラー服と詰襟だった制服を通称「ネギ」と呼ばれるブレザータイプに変え、自然科学類型(理数コース)を廃止して総合ヒューマン類型を設置しました。しかし、年間の遅刻者数の合計は1万人超、煙草やバイクの指導件数も多く、地域から信頼され中学生から憧れられる高校とは言えない状況でした。

放送部は開店休業状態でした。コンテストに出場するために必要な県の登録すら長年していません。春休みの活動はないのは当然のことでしたが、平日の放課後の活動すらありませんでした。

私は放送部の副顧問になりました。主顧問の先生に活動状況を聞くと「何もしていません」と言われたので「好きにやらせてもらっていいですか? 何もしてもらわなくて結構です」と伝えました。私は猪名川の時と同じように放送部の存在が伊丹西高校の誇りになるようにしたかったのです。放送部から学校を変えようと思いました。

始業式の日に部員を呼び出しました。「実は放送部に大会がある。出てみないか。」と伝えました。その時に演劇部と兼部をしていた3年生部員が返した言葉を忘れることはできません。

「先生みたいな顧問の先生が来てくれるのを待っていました」

Nコンのラジオドラマ部門に参加しました。佳作すらもらえませんでしたがすべての始まりでした。

その年の総文では朗読部門で予選で入選したものの新型インフルエンザ流行による休校措置で決勝を棄権せざるを得ないということもありました。

放送室にはビデオカメラはおろか、まともなマイクもミキサーもありません。1年生部員は1人も入らず、放課後の部活動も定期的に行われるわけではなく、まだまだ安定した活動は行えませんでした。


2年目の2010年度。新入部員も入りました。1年目に学校行事で司会などを務めるようになったことをきっかけにPTAの部活動振興費をビデオカメラの購入費に充ててもらうことができました。Nコンでラジオドラマで予選の佳作をもらうことができました。

少しずつ活動が活発になりましたが3年生の引退後、残ったのは1年生だけになりました。1年生の中には放送室で楽しくおしゃべりしているのが楽しいだけのメンバーもおり、3年生がいなくなった夏以降は活動が再び停滞しました。そんな時に1人の新入部員が2学期に入ってから加わりました。びっくりするほどきれいな声をしていました。総文のエントリーの締め切り直前だったので急きょアナウンス部門に出場させました。この生徒が入っていなければ放送部は廃部に追い込まれていたかもしれません。


3年目の2011年度。前年に途中入部したその生徒がNコンのアナウンス部門で入選しました。県決勝には届きませんでしたが希望が見えてきました。総文では決勝に進み、年末の上級者対象の県の宿泊研修にも参加することが出来ました。そして、人数は3人だけでしたが入ってきた新入部員が素晴らしい人材でした。真面目かつ遊び心を持った女子3人でした。この3人にテレビドキュメントの制作を持ちかけたのです。実現には1年以上かかりましたが、いつでもカメラを持って撮影をして遊ぶ空気が生まれました。ようやく毎日の放課後の活動、毎日の発声練習が当たり前の状態になりました。


4年目の2012年度。Nコンではラジオドラマ部門で入選し、番組部門で初めて県の準決勝に進みました。総文では初めてテレビ番組部門にも参加しました。予選で参加したラジオドラマでは佳作に入りました。結果発表後、私の顔を見た部長が悔しいのか嬉しいのかわからない号泣をしていました。大会の結果発表を受けて泣くことができる部活にようやくなったのです。また、この頃にはマイクやミキサー、ビデオカメラや三脚、編集用PCなどの放送部活動に必要な機材をようやく揃えることだできました。


5年目の2013年度。部のイメージを一新するために放送メディア部に改名しました。この年の新入部員が2年後に全国大会出場を果たす世代です。部員育成の手段として1年生にラジオドキュメント部門への参加を義務付けました。4月に入った部員が6月の大会にドキュメントで参加するのですから無茶な話です。結果は度外視で取材や編集の経験を積ませることが目的でしたが運よく県決勝まで残りました。3年生部員は結果は残せませんでしたが活動に臨む気持ちという面で後輩たちに計り知れない影響を与えました。


6年目の2014年度。この年の新入部員は後にテレビドラマを制作することになる非常に好奇心が強い生徒たちでした。そして、機が熟したと判断した私はNコンで全国大会に出場するために勝負をかけました。私が出した企画を顧問と部員全員で制作する形でテレビドキュメント部門での全国出場を目指したのです。いい作品ができましたが結果は全国大会出場まであと1点足りませんでした。悔しい結果でしたが全国大会出場が現実的な目標になりました。そして、この結果を受けて近畿総文へ推薦されました。秋に福井県で開催されたこの大会では優秀賞を受賞し、初めて大きな大会で結果を出すことが出来ました。


7年目の2015年度。Nコンの全国大会に初めて出ることが出来ました。会心の作品となったラジオドキュメントに加えて、朗読部門でも1人が全国に参加できました。秋の総文でもラジドキュメントで初めて決勝に進み銅賞を受賞するなど、ようやく放送部強豪校を名乗ってもいいかな、という気持ちが生まれました。ここに至るまで校内活動に加えて地域のイベントやコミュニティーFM局への出演などコンテスト以外の活動においても誰からも認められるような活動をしてきたからこそでしょう。

8年目の2016年度。Nコンでは作りたいというものをすべて作らせた結果、テレビドラマ1作品、テレビドキュメント2作品、ラジオドラマ2作品、ラジオドキュメント2作品という1年生5人を含めて11人しかいない部員数では考えられない数の作品を作りました。結果的にどれも全国には届きませんでしたが棄権なく作り上げたのは今思い返してもよくやったと思います。3年生部員が引退した後、1年生の退部が相次ぎ部員は3人だけになりました。総文で入選は果たせませんが、人数が減っても学校行事や地域での活動においてのレベルは落としませんでした。


9年目の2017年度。再びNコンのラジオドキュメント部門で全国大会出場を果たしました。新1年生も非常に才能に溢れた部員たちが入りました。人間関係作りでいろいろ苦労もありましたが乗り越えていってくれました。総文でも再び決勝に返り咲くことができました。校内では放送メディア部ありきでさまざまなプログラムが実行されるようになり存在感を増していきました。

10年目の2018年度。私がいなくても部活動は完全に動いていくようになりました。3年生部員は1人だけでしたが全部門出たいという望みをなるべく叶えました。結果的にN

コンの全国にはあと少しのところで届きませんでした。この年の新1年生も素晴らしい人材が集まりました。現在の3年生部員です。総文では初の銀賞受賞。個人部門のレベルも格段に上がり、プロのアナウンサーや全国大会優勝者を読んでの練習会を何度も開きました。


11年目の2019年度。Nコンの全国大会には当たり前のように出ることができました。しかし、目標としていた個人部門での出場は叶わず。全国に出場するのに悔しさに満ちているという状況が生まれるまでに成長したとも言えます。全国でも初めて準決勝に進み入選を果たしました。NHKホールのステージに伊丹西高校の名前を映し出すことができました。全国総文にも初めて出場できました。総文では久しぶりのラジオドラマで銀賞。個人でも決勝に2人が残りました。伊丹西高校にはここ数年放送メディア部の大会結果を伝える横断幕が途切れることなく掲げられています。

12年目の2020年度。尾崎は去りましたが活動内容は今後も発展していくはずです。新型コロナウィルス感染症の影響で新学期早々休校が継続され、Nコンの開催も危ぶまれる状況です。でも! きっと伊丹西高校放送メディア部ならばこの危機を乗り越えてくれると信じています。


11年間一緒にがんばってくれた歴代の放送部・放送メディア部の部員たち。


ありがとうございました。

感謝しています。


今後もよろしくお願いします。

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